日本のシンデレラ「モルガンお雪」
女性が国際社会に進出した明治期、世界に日本女性の存在を知らしめた一人に「モルガンお雪」(加藤ゆき:1881年8月7日~1963年5月18日、81歳没)がいました。彼女は世界三大財閥であるモルガン一族に嫁ぎ、日本のシンデレラとして日本に限らず世界中の話題を集めた祇園の芸妓でした。晩年、亡くなった夫を追ってカトリックに改宗しましたが、親族の希望で同聚院に分骨され現在も当山にて供養されています。
祇園の芸妓時代
当時お雪は祇園において胡弓の名手として知られていました。その時ちょうど祇園に立ち寄っていたモルガン氏が、お雪に一目惚れをします。モルガン氏は早速彼女にプロポーズをするのですが、なかなかお雪は首を縦に振りません。そこでモルガン氏は巨額の落籍金を準備して結婚を迫ります。しかし、そのことでお雪は金で身を売った芸妓と周りから揶揄されるようになってしまい、この件は当時の新聞・雑誌の格好の的となって、お雪は自殺を図るほど追い詰められてしまいました。
五大堂での心の修練
お雪が精神的に困ぱいしているところを見かねた菩提寺である同聚院の住職は、不動明王のご鎮座される五大堂でしばらく籠もって己を見つめるよう勧めます。その様子はお雪が五大堂で数週間参籠をしている間、彼女を慕った祇園の芸妓たちが心配して毎日こぞって弁当を届けるほどでした。しばらくしてお雪は、周囲の冷ややかな視線とは一線を画し自分のことを一途で真摯に見つめてくれているモルガン氏の愛に気づきます。そして周囲に振り回されることなく当時では難しかった国際結婚を決意しました。この結婚は当時日米友好の先駆けとして大変注目されました。また結婚記念日の1月20日は「玉の輿」の日とも呼ばれています。
お雪はアメリカに到着するや「ニューヨークの社交界にはじめて足を踏み入れた」と現地でも新聞などの注目を集めるほどでしたが、キリスト教国である上に人種差別の強かった現地での苦悩は計り知れず、お雪の精神的強さとその覚悟が伺えます。
加藤家の信仰
お雪の家系は代々神仏に信仰があつく、時間があれば京都の多くの神社仏閣を家族で参拝するような家柄でした。その中でも特に信仰があつかったのが菩提寺である同聚院の不動明王で、晩年に帰国した後、夫を追ってカトリックに改宗したものの、同聚院での先祖供養は欠かさず行っていました。古くから女性の出世・商売繁盛・良縁・芸事上達にご利益のあった「働く女性の守り本尊」の不動明王をモルガンお雪が信仰したことにより、明治期に女性の社会進出が叫ばれるようになると、お雪の結婚を機に祇園の芸舞妓だけでなく、全国の女性から信仰を集めるようになりました。
白バラ・ユキサン
お雪は結婚後、ジャポニズムの影響が残るアメリカ、フランスの社交界で遺憾なくその器量を発揮し、日本女性が国際社会に通用することを知らしめることになりました。その様子は当時彼女が帰国するたびに新聞や雑誌を賑わせるほどでした。
1963年5月18日、81歳でお雪はその生涯を閉じますが、三回忌の際にはパリ市から京都市へ白バラの献花が行われました。それは世界屈指のフランスのバラの名門であるメイアン氏がお雪を慕って開発した新種でした。その名も「ユキサン」。同聚院に植樹された高貴な香りとその上品な花弁をつける白バラ・ユキサンはまさにモルガンお雪の姿そのままであり、同聚院の境内では今でも多くのユキサンを鑑賞することができます。
※京都市に当時の文献が無いか調べて頂いたところ、
「1965年(昭和40年)3月 フランス生花業者全国連合会一行135名入洛,新種 バラ100本を寄贈」
という一文があったそうです。
パリ市から京都市へ、とお寺では聞いておりましたが、正確には生花組合の方が京都市へ献花してくださったようです。いずれにしても当時135人の団体で日本に来るほどですから、お雪さんの影響力がどのくらいのものだったか、またバラの歴史を知る良い資料です。
膨大な文献の中から調べて頂いた京都市の職員の方へ感謝いたします。