4月29日売茶翁会「坐客悠然」

「坐客悠然 主賓を忘る」
― 吹く風も楽しく、飲む茶も楽しく ―

新元号の五月になって美味しい新茶が出回る季節となりました。緑茶の代表である煎茶が庶民に飲まれるようになったのは江戸中期以降のことです。「茶を煎じる」と書くように、その頃の煎茶は急須でそのまま湯を沸かし、お茶を煮出して飲む喫茶方法でした。その様式を庶民に浸透させたのは「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれた一人の黄檗宗の禅僧でした。
売茶翁は、主に京都の景勝地で茶を売りながら禅を説くという貧しいながらも悠々自適な生活を送り、殊に東福寺の洗玉澗は好んで通い茶店を開いておりました。その生き様は当時親交のあった伊藤若冲をはじめ、池大雅、富岡鉄斎など多くの文人・画家に敬愛され、時代を越えて影響を及ぼしていきます。今回はそんな売茶翁が茶を売りながらどんなことを説いていたのか禅の視点から見てみたいと思います。

題にある「坐客悠然 主賓を忘る」とは、「客がどっぷりと座って、いったいどっちが主人で客なのか忘れるほどくつろいでいることよ」という意味になります。これは売茶翁が東福寺近くの二の橋付近に通仙亭という店を構えた頃の偈語の一句です。主賓を忘る主客一体の精神は従来の茶道でも重んじられましたが、この句ではちょっと味わいが異なり、眼目は坐客悠然です。二の橋付近は西に向かえば東寺、南へ向かえば東福寺、伏見稲荷大社と今も昔も交通の要衝です。人々が慌ただしく往来する中、来店した客人が雑踏に和して落ち着き、ただ風を受けて頭をからっぽにして茶を飲む。そして、いまこの茶店を我が庵とせんばかりに寛いでいる。売茶翁はそこに繕うことの無い、人のありのままの姿を見て微笑ましく感じているのでしょう。なぜただ寛いでいる姿が禅に適うのかと言えば、それは余計な雑念なくただ寛ぐことに徹しているからです。禅は無心を説きます。無心とは頭を空っぽにして己を迷わす「我」を取りのぞいた心のことを指します。そうして分別にとらわれず執着なく妄想なく、働くときは一生懸命働き、休むときは休むことに徹する。そういう引っかかりの無い無心の日常を売茶翁は茶店を通じて客に勧めているのです。

しかしながら万人がそんな無心の生活を送れるわけもなく、それを嘆く面白い偈語もあります。

「お茶を飲んでいきませんか(喫茶去)と勧めるも
行きゆく人は売れ残りの茶には見向きもしない。
もしこの茶を一口に飲んだなら、
長い間渇ききっていた心は、たちどころに潤うことであろうに。」

この句には茶を売ることが目的ではない売茶翁の思いが見て取れます。禅の視点から見れば、売茶翁が「飲んでいきませんか」と勧めたら、「それでは頂いていきましょう」とスッと素直に対応して欲しいわけですが、むしろ人々は怪訝な目で通り過ぎていく。さらには「タダにて飲むも勝手なり」と料金は問わない旨の看板も出していても、その意を汲み取る者は多くはなかったでしょう。慌ただしい日常に追われていく人々を眺めながら、ああ、ここにあなたたちの求める心の潤いがあるというのに、何を右往左往するのか、と世間を慈しんでいる売茶翁の姿が目に浮かぶようです。
このようにして世間に溶け込み禅を説いて回った売茶翁ですが、その時代は仏教も形骸化して堕落し、計らいごとをしては信者の布施を貪る僧も多く占めるようになりました。売茶翁が乞食の精神に反し商いを始めたのには、そんな時代に対する反骨の精神があったためです。現代のお寺事情に目を移しますと、果たしてこの江戸中期の有様とどれだけ違うのか、檀信徒に「坐客悠然」と身を挺して禅を説けているのかと反省を促される思いがして、恥ずかしさでいっぱいになります。

普段お寺におりますと眼の前の雑務に追われる毎日ですが、それでも修行半ばの身と己を顧みて朝晩は専門道場に赴き、雲水(修行僧)と一緒に坐禅をするようにしています。朝、ううぅと呻くように起きては「ああ、今日の坐禅は絶対寝てしまうなぁ」なんて思いながら参道を上がっていくのですが、最近は坐禅をするとむしろ目が覚めてくるから不思議です。一週間坐禅ばかりを行う修行があるのですが、よく老師(原田管長猊下)が「公案(禅問答)と一枚になって坐る三昧になっていく。そうすると三日目くらいには気持ちよく坐れるようになるんだ。」といつもおっしゃっていました。雲水の頃はただ足が痛い、眠いばかりで「そんなバカな!」と思っていましたが、それでも坐禅を続けていくと、あれ、気持ち良いとはこういうことなのかな、とある時から思えるようになるのですから続けていくことはとても大事です。頭をからっぽにしてあらゆる分別を捨てていく。そうしていくと公案と一枚になるも楽しくなってきます。禅堂を吹く風もそよそよと楽しく、朝に小鳥がチッチと鳴くのも楽しく、坐ること自体が大変に気持ち良くなってきます。坐客悠然とは、こんな風に頭を空っぽにしてただその場その場に徹し、何事も楽しく感じていくことではないかと思います。
お寺に戻ってからはとりあえず煎茶を淹れますが、坐禅のあとのせいか、湯を沸かす時間も心静かで楽しく感じます。一分でも惜しい朝の時間だとは思いますが、皆様もぜひ心静かにお茶でもコーヒーでも淹れる余裕を持って頂きたいと思います。私の最近のお気に入りは滋賀の朝宮茶で、六〇℃以下の低い温度で淹れると控えめで上品さのある茶の味と香りが突き抜けて体に清涼感を巡らせ、その余韻はすうっと頭の中の塵垢を吹き飛ばし集中力を保たせてくれます。ここが他ならぬ煎茶の良いところでしょう。茶店が商いをしている目印として「清風」と書かれた茶旗を下げることがありますが、なるほど、茶の清風めぐる心地とは、頭をからっぽにして坐禅するその心地に通じるものがあるなぁと感じます。

坐禅をしては坐客悠然。茶を淹れては坐客悠然。我々はどこにいても忙しくしていても坐客悠然としているべきでしょう。頭からっぽに吹く風も楽しく、飲む茶も楽しくしていけば、すでに主賓という対立や、ストレス、悩みも越えています。これが売茶翁の求める禅の精神なのだと思います。坐客悠然、先日檀家さんにそんな話をしましたら「いやいや、現実そんな悠長なこと言ってられませんよ!」と一蹴されてしまいましたが、より良い仕事をするためには「一服も仕事のうち」と順逆自在に考えてみてはいかがでしょうか。
最後に売茶翁が東福寺の洗玉澗にて茶店を開いた時の偈語のひとつを紹介いたします。どうぞお気に入りの煎茶で一服しながら、茶の味をも忘れた悠然の心地を味わってみてください。

同聚院住職 岡本弦親