8月23日東福寺 常楽説法「はたらき」

第2回 常楽説法「はたらき」

 同聚院には使ってない井戸が2つありまして、一つは手水、つまり手を清めるための井戸。そして生活用水に使う井戸の2つなんですが、つい先日2つ目の井戸が40年ぶりくらいに開通しました。井戸というのは一番下に木の桶が埋まってまして、使ってないとまずその桶が痛みます。 水も動かさないと死んでいきますし、その桶が痛むと井戸自体が崩れ落ちる危険もあって、大事に使わないととんでも無いことになってしまうんですね。

今の時代、蛇口をひねれば水が出ますけれど、この東福寺の地下水は慧日の山(稲荷山)の水でして大変に美味しいんです。 朝の掃除や植木の水やり、お煎茶を淹れたり、お米炊いたり、生活の基盤がすべてその井戸中心になっていきますから、やっぱり水を大切にきれいに使おうという思いが起こります。やっぱり飲水としても使いますから、塵ひとつも井戸には落としたくないですし、今日はちゃんと井戸水湧いてるかな?きれいな水が出てるかな?なんて普段では気にしないことも気になっていきます。

じつは昨日、おととい(8/21~8/22)と大峰山に行ってまいりまして、天川村(大峰山のふもとの集落)の天河大弁財天社をお参りいたしましたら、そこの御神体が井戸だって言うんですね。 神社の禰宜さんが、井戸は大切にまつれば「はたらき」ますよ、って言っておられまして「むむ、はたらくとはどういうことだろう?」 と思いましたので、今日はその「はたらき」をテーマに、お話したいと思います。

よく禅宗では「はたらき」という言葉に、「機」「用」の字を当てます。 「大機大用(だいきだいゆう)」なんていいまして、心のはたらき(機)、お悟りの作用(用)のことを指します。「機」は機械の「機」、機織りの「ハタ」ですね。機織りっていうのは糸から織物を作ってきますね。基本となる糸から我々の生活に役立つものを作っていく大事な機械であるわけです。 同じように、お釈迦さんの教えの根本をしっかり掴んで(機)、じゃあその掴んだ境地をもってどう日常に対応していくのか(用)、というのが我々僧侶の修行とするところなんです。 微妙に性格は違えど、両方とも心の「はたらき」を指します。

今日もみなさん坐禅をしていただきましたけれど、頭空っぽに坐禅したところがいわゆる坐禅の「坐」つまり「機」です。織物をつくる糸ですね。 その頭空っぽの境地を腹に据えて、にこやかに常に安楽に生きていく。 つまりそれが坐禅の「禅」の部分「用」、ということになります。糸から作った布、織物のことですね。

さて、さきほどの大峰山の弁天さんの話に戻りますけれど、大峰山には東福寺の管長と南禅寺の老師さん、つまり我々僧侶の先生にあたる方と数名で参拝しに行きました。南禅寺の修行道場にも使ってなかった井戸があったらしく、老師さんが去年井戸を復活させたみたいで、ある人から「その井戸に、名前を付けたらはたらきますよ。井戸が喜びますよ。」と言われてたらしいです。それからというもの早速井戸に名前をつけて、井戸水を毎日つるべで汲んでその水を弁天さんにお供えして、そうして手を合わせて大事に使っているらしいです。

弁天さんは水の神様ですから、たいてい神社、お寺の池や井戸の近くには弁天さんをお祀りすることが多いんですね。そのことを天河大弁財天社の禰宜さんにお話したら、その禰宜さんも「大事にお祀りすれば、井戸がはたらきますよ。 弁天さんがはたらきますよ」とおっしゃっておりました。 南禅寺の老師さんはその2人にはたらきますよ、と言われたことにとても共感されていまして、大事にお祀りしなければなぁ、と感慨深くおっしゃっておりました。

私のところのお寺にも弁天さんがおりますけれど、毎日信者さんがお不動さんと弁天さんに、誰が見てなくても手を合わせて頭を下げていきます。それを影で見ながら「すごいなぁ、自分はあの信者さんのように、最近頭を下げたことあったかな…。南禅寺の老師のように、手を合わせたことあったかなぁ…。」なんて反省してしまいました。

 さて、ここからが大事なのですが、ではなぜ素直に手を合わせる、頭を下げることができないのでしょう?

それは、心が「はたらいて」無いからなんです。

わたしたち禅宗の僧侶はもっぱら坐禅をして、この糸の部分を掴んで日常に対応していく修行をするんですけれど、修行も長くなってちょっとでも分かったような気になると、よく勘違いを起こしてしまうんです。 俺はみんなの分からんことが分かったぞ!俺はみんなより修行してるぞ、という具合に慢心を起こします。なんというか、たとえそれが正しかったとしても、自分の武器みたいに間違って使ってしまうんですね。慢心を起こしてお悟りの境地を練っていく努力をしなかったら、まったく役に立たない。これをよく「禅のはたらきが無い、死んだ禅だ。」と言ったりします。 お悟りの目をもってきちんと心をはたらかせて行かなければ、結局のところなにも分かっていないのと同じなんですね。 

ではどうしたら心をはたらかせることができるのかと言えば、当たり前なのですが、まず謙虚さを持つことです。頭を下げる、手を合わせるなんて言うことは、謙虚さが無いとなかなかできない行動です。当たり前なこととは言え、では、きちんと出来ているのかと言えば、皆さんいかがですか?ついつい人間は自分中心に考えがちです。今日もありがとう、これからもよろしくおねがいします。そういう謙虚さと感謝の気持ちが薄くなり自分の利のために生活を送るようでは、なんのはたらきも起きません。

井戸も使わなければ、水が死にます。水が死ねばそれを飲む植物も我々も生きていくことは難しいでしょう。同じように、坐禅をして頭を空っぽにした静かな心をもっていかねば、慢心などの煩悩によって心は死んでいきます。死んだ心のままでは、他人を幸せにしていくことなどできないでしょう。だからこそ、謙虚さと感謝の気持ちをもって、心をはたらかせて行かねばなりません。心がはたらけば、常に安楽な生活が送れるようになります。そして自然と他人をも幸せにしていくことができるようになるんです。この東福寺境内で行う法話会を「常楽説法」と管長が命名してくださいましたけれど「聞きに来る人が常に安楽であるよう説法しなさい」と名付けてくださったのも、なんとも はたらきのあることじゃないですか。ありがたいなぁと思います。

一本の糸を織物に変えていく。坐禅の境地を自分だけでなく他人も安楽になるよう練っていく。機械はガソリンとか電気ではたらくかも知れませんが、心は謙虚さが無いとはたらかせることができません。井戸がその周りで生活するすべての生き物に恵みをもたらすのと同じように、我々も心をはたらかせて、自分だけでなく他人も施していけるようにならねばなりませんね。

この法話を聞いて、なるほどなぁと少しでも 思っていただけたなら、私も少しははたらいたかな、と思えます。しかし、あんまりピンと来ないようなら「和尚さん、まだまだ謙虚さが足りないよ!」と 声をかけてください。反省して修行に邁進いたします…。今日は、井戸の逸話から、謙虚さをもって心ををはたらかせて行くことが大事なんだ、ということを法話にさせていただきました。ともに、よりよい安楽な生活を送れますよう、精進して参りましょう。

ありがとうござました。

同聚院住職 岡本弦親

※追記
仏教では、自分の悟りのために修行することを「自利」と言い、その悟りを他人のために活かすことを「利他」と言います。「自利利他」ともに必要な境地ですが、いずれにしても素直な謙虚さが一挙手一投足に現れなければ、まったく修行の成果は無いと言えるでしょう。